今朝の読売新聞の記事です。
芸能人のナダルさんのこちらの記事をご覧下さい。
いじめについての事が書かれています。
『やまない雨はない』
8年前の僕の記事もどうぞ。
このブログの直後、
多くの保護者の方々から、
メールを頂きました。
こちらにも、貼り付けおきます。
『あの日の事、許してくれるかな・・・』
僕は、中学生の時に、演劇部の助っ人として、借り出された事があった。
僕以外にも、同じ野球部の数名は、助っ人として出た。
題名は、
『いじめの構図』
今、正に問題になっている、いじめを題材にしたストーリーだ。
パンなどの飲食物を買い出しに行かせるシーンがある。
演技だけど、殴ったり、蹴ったりするシーンもある。
中三の時には、地元(東松山)の公民館で披露し、埼玉テレビの人も来ていた。
それから1年後、
僕が中学を卒業してから、事件は起きた。
いじめられていた子が、
いじめてくる子を脅そうとして、
学校にナイフを持って行ったのだ。
その日、いじめていた子は、
いじめられていた子に、ナイフで刺されて亡くなった。
救急車が到着したようだけど、何度も刺されたので、助からなかったようだ。
あれから15年。
いじめが問題になっているけど、根本は、何も変わっていないような気がする。
こんな僕も、中学の時に、からかわれた事もあるし、
高校では、いじめられた事もあった。
クラスの友達からシカトされて、孤独だった日々が続いた。
いじめは、本当に難しい問題だと思う。
いじめは、絶対に、絶対に良くないけど、
心が傷付く経験は、絶対に絶対に必要だと思う。
ちょっと矛盾しているようだけど、僕はそう思う。
僕は、『心が傷付いた分だけ、人に優しくなれる』と思うんだ。
だって、普通の人間は、
自分がされて嫌な事は、人にしようとは思わなくなるはずだ。
100人いたら、100人がそう思う事は無いかもしれないけど、
殆どの人がそう思うはずなんだ。
普通に生活しているだけでも、傷付けてしまったり、
自分が傷付いてしまったりする経験は、誰にでもある。
僕は、後悔している事があるんだ。
何度も振り返る度に、自分を責めた。
そして、胸が苦しくなった。
もう5年以上も前の話。
ある女の子が授業後、柱にもたれ掛かるように、
号泣していた。
理由が分からず、聞いてみると、
重い口を開いてくれた。
お父さんの命が、もうそれほど長くないと。
理由は、癌だった。
その日以来、その子が塾に来ると、少しでも笑っていて欲しいと思った。
少しでも辛いことを忘れて欲しいと思った。
どんなに辛い時でも、笑っている瞬間は、辛いことを忘れられると思うから。
また、ある時の授業で、僕はその子に、
こんな質問を受けた。
「人は死んだら、どこへ行くの?」
と。
数学の文章問題より難解で、
僕は上手に答えられなかった。
それは、その子のお父さんの状態にも、関係している。
真面目に答えようとすれば、空気が重くなるし、
笑って誤魔化せるような子でもない。
僕は、その子を傷付けないような答えを探しながら、
「う~ん。どこへ行くんだろうねー!?」
と、言葉を転がした。
それは、広大な砂漠の中から、無くした指輪を見付けるぐらい、
難しい事だと、当時の僕は思った。
その子が卒業して、数年後のある日の授業で、
僕は、ある言葉を発してしまった。
「みんなのお父さんに聞いてごらん?」
一見、普通の言葉だけど、
必ずしも、塾の生徒たち全員に、お父さんがいるとは限らない。
「お父さんか、お母さんに聞いてごらん?」
だったら、まだ良かったかもしれない。
そして、僕はその瞬間を見逃さなかった。
いつも、いつも、僕の目を見て、真剣に聞いている子がいた。
誰よりも真っ直ぐ体を向けて、その子は聞いていた。
でも、僕がその言葉を発した瞬間に、
その子の視線は、宙を舞って、
僕の目から離れていった。
その刹那、僕は自分の過ちに気が付いた。
何て事を言ってしまったのか。
僕が、授業中に話をする時は、
トランプの神経衰弱でカードを選ぶように、
慎重に言葉を選ぶ必要がある。
それは、常に、針に糸を通すような集中力が求められる。
一対一の会話と違い、誰に対しても、
心を傷付けないような、言葉を選ぶべきなんだ。
その子が傷付いたかどうかは、分からない。
その場で授業を中断して、謝るのも変だし、
逆にそんな事をしたら、傷口に塩を塗るようなものだ。
周りの子は、それに気が付いていなかったみたいだ。
その子だけ、後で呼び出して、謝っても良かっただろうけど、
それも、何か違った気がする。
その子が傷付いたかどうか、誰にも分からない。
ただ、いつも僕の目を見つめるその瞳が、
逸れてしまったのは、事実だ。
僕は、直ぐに話題を変えたので、
その一瞬だけで、その後の授業はいつもと変わらなかった。
今回のように、決して傷付けようと思った積りはなくても、
誰かを傷つけてしまう可能性はある。
僕は、何度も何度も、自分自身を責めた。
自分を肯定する積りは、毛頭ないけど、
生きていく中で、一度も傷付けない人はいない。
また、傷付かない人もいない。
もし、傷付いたら、
それは、心の痛みが分かる人間になれたという事。
心の痛みが分かる人間は、その分、人に優しくなれるから。
僕が、生徒に優しいのも(宿題を忘れた場合を除く)、
そうなんだ。
生徒たちには、笑顔で塾に来て、
さらに笑顔になって、家に帰って欲しいと思っている。
誰一人として、傷付いて欲しくない。
誰一人として、悲しい想いをして欲しくない。
ごめんね。
僕の不注意で、傷付けてしまったかもしれないね。
もう、忘れてしまったかもしれないし、
思い出したくないかもしれないね。
本当にごめんね。
あの日の事、
許してくれるかな?
こんな事を書いたら、保護者からお叱りを受けるかもしれない。
失望されるかもしれない。
でも書かずにはいられなかった。
僕は、いつも自分の気持ちに正直に生きたい。
人間だから間違いもある。
でも、反省し、立ち直ってまた前に進みたい。
あれから、どれぐらいの月日が流れたのでしょう。
癌でお父さんを亡くした子が卒業してから、5年以上の歳月が経ちました。
その子のお父さんは、今も生きています。
そう。
あの日から、ずっと、その子の心の中で生き続けています。
どこかで、耳にした話ですが、人は、二回死ぬそうです。
一回目は、肉体が滅びた時。
二回目は、人に忘れ去られた時だそうです。
僕は、あの日からずっと、思考という、
広大な砂漠を彷徨い続けていました。
見付けられるかどうか分からない答えを、
探していたのです。
彷徨い続けた先で、
やっと、
やっと、
答えを見付けたような気がしました。
その子のお父さんが、癌で亡くなって、
その子が卒業して、5年以上経ちました。
もう、その子に会う事はないかもしれない。
無情にも、今なら、
「人は死んだら、どこへ行くの?」
と、あの日、その子が発した質問に、上手に答えられるような気がします。
「その人を想う人の・・・心の中へ行くんだよ」
と。